息子のひきこもりは酒害の後遺症
ブログ開設以来、わたし(心臓バイパス手術)、妻(甲状腺がん)、息子(ひきこもり)と3者3様の表情をランダムに記述してきた。
ここらでもう一度ざっと家族3人の年表みたいなものを記してみたいと思う。
わたし
→1963年大学入学→2~4年まで屋上ビヤガーデンでボーイのアルバイト
→1967年卒業→就職してサラリーマン生活を送る。
→1970年大阪万博、25歳もうこのときにはアルコール依存症だったと思う。
30歳で6歳年下の妻と結婚
32歳のとき息子が生まれる。
35歳のとき飲みながら欧州に出張する。
38歳で会社に通えなくなり退職。
38~40歳までアルコールの禁断症状にのたうち回る。
→1986年アルコールの専門病院と巡り合う。
→自助グループ(断酒会)に通い詰める。
息子
1977年誕生
→1986年9歳(父親がアルコールの専門病院と巡り合った年、小学校4年生)
→1990年中学2年生でひきこもる。
父親がアルコールの専門病院と巡り合った後に"ブラックアウト"という酒害の症状で息子を痛めつける。今でいうパワーハラスメントである。心の赴くままに息子をののしり倒す=説教詰めにする。
このときの心の傷と学校でのいじめで息子はひきこもり不安神経症(不潔恐怖症)を発症する。
現在、表面では父親のことを許しているようでも潜在意識の中にはまだまだ父への恐怖や恨みは残っているはずである。
わたしもまた、アルコールを断って32年になるがまだ酒害の後遺症を引きづっている。
(パソコンの記録の奥から約7年前の次の文章を引っ張り出してきた。わたしが心臓バイパス手術を受けてすぐのころである。この半年後に妻が倒れる。)
息子への謝罪文
ya、ごめんなさい。今までのお父さんを二つのことで許してください。
一つは幼い頃、お父さんのアルコールの害のためyaの心を痛めつけたことです。振り返るとひどいことを言ったと反省しています。頭を床にこすりつけたい思いです。ごめんなさい。
二つ目は、いくら「十年間ぼくのやり方で立ち直るから口を出さないでくれ」と宣言されても、それを真に受けて回復の方策を一緒に考えてやれなかったことです。ごめんなさい。
この十年間、yaの心が穏やかに過ごせるよう、経済的支援の面で必死に働いてきました。景気の良かったときはまあまあの余裕がありいろんなものが買えたと思いますが、この四、五年は日本経済が下降に転じ便利屋の客も急激に減少の一途です。
お父さん自身が歳を重ねたように、お客さんも歳を取り亡くなったり施設に入ったりと、あっという間に周りからお客さんが居なくなってしまいました。
昭和二十年代前半生まれの団塊の世代が定年を迎え街に暇な高齢者があふれています。若者も仕事がなく今まで手がけなかったような古い電気製品回収など便利屋の分野に出張ってきています。
以上のことも「便利屋S」の売り上げ減少の一つの要因ですが、お父さんの心臓の具合が段々に悪くなったのが気力が無くなったもう一つの原因でもあります。
以上のことから、これまでのようにクレジットの借金にお金を回すことが不可能になりました。我が家の破綻は目の前に見えています。いや、もうだいぶ以前から首は回らなくなっているのでしょう。
幸い日本国の仕組みに「自己破産」や「生活保護」の制度があり、人生のやり直しを支援してくれています。人に頼ることが嫌でお父さんも頑張ってきましたが、もう限界を感じます。
潔く一度今までの借金を清算する決心をつけよう思っています。。
ゼロから出発して新しい生活を徐々に築いていきたいと考えています。お母さんももうぎりぎりの所に来ていると感じます。
お金のことで苦しんで姿を見るに忍びません。お父さんはお母さんの支えになってやりたいと切実に思っています。
皆が少しずつ折れ合って「自己破産」しませんか?三人が適切な治療に巡り合い三人で助け合ってこれからの生活を切り開いて行きませんか?
お父さんはyaに対して全面的に謝ります。そしてyaとお母さんのために新しい生活を取り戻すために下支えになるよう今まで以上に頑張ります。
この何日間に市役所などに相談に行きました。yaの今の部屋はそのままで手続きが受けられそうです。人の出入りも少ししか無いと聞いています。
橿原市の議員に手続きをしてもらうと面倒な家庭訪問など余り無いようです。パソコンやテレビなど生活の道具そのまま使えるでしょう。
(この謝罪文はほんとうは、自筆で書くべきなのでしょうが、心臓がいまドキドキし始めましたのでこのままパソコンで印字して、署名だけ手書きとさせてもらいます。)