終活 ひきこもりの息子を自立させるまでは死ねない

デジカメの編集画面にいつも笑顔の息子が現れる。「がんばれよ!」と小さく声に出してみる。

アルコール依存症・閉鎖病棟からの手紙ー8ー


「M氏」 "命大切に"もはかない響き

am1:25、深夜、2回目の下痢です。am5:25、3回目、am7:45、4回目。予想していたより、驚かされていたより苦痛なし です。以後、検査時間まで絶食します。今日も朝食のパンはありま せん。お茶も飲めません。  

落とし紙は入院時にKeiが買っておいてくれたのがまだ一センチ も残っています。昨日購入した二袋はそのままです。どうせ要るも のですし、もう退院まで心配はいりません。検査の準備は予定どお り終了しました。am9:30より検査の本番です。  

これぐらいの下痢で宿便など出るわけはないと思います。西式医 学の宿便取りや断食についてはK医師よりおいちゃんのほうが詳し いはずです。精神のほうこうの果てに、いろいろと実際に試してみ たことです。身の入れ方が違います。

生体の仕組み、宿便の強力なこびり付き方、ポケット宿便など、 現代医学が簡単に使う宿便と東洋医学の宿便は意味が相当に違うよ うです。

検査食のことを「ボンゴロン食」と言うのです。なぜそう呼ぶ のかは分からないそうです。後ろからボンと押すとゴロンと倒れる ほど頼りない量の食事だからでしょうか。  

糖尿病の人が入ってきました。早速インシュリン注射をしても らっています。入院前は自分で打っていたそうです。3日間放って おくとフニャフニャになると言っています。奥さんとも別れ、会社 の寮からも追い出され、もう帰るところも仕事もないそうです。悲 惨極まりない人生です。  

社会の底辺でうごめいている者が次から次へと5号室に入ってきます。皆、布団をかぶって寝ているしかありません。シャバにいるときは酒で紛らわせていた心も、ここでは全く飲めないので目を 堅くつぶっているしかないのです。各々どんな心境で夜具を引っか ぶっているのでしょうか。  

目の前の人は多分50歳前です。頭のてっペんが少し薄く、顔つ きも肌にもつやがありません。目だけおどおどしています。全体と しては動作は鈍く、しゃべる口調もロレツが回りません。薄い笑い が過去を物語り未来をあきらめています。  

降りしきる雪の中、おいちゃんは新雪を踏みしめながら新館病 棟へ行きました。Ⅹ線室で注腸検査です。お尻の穴から大腸に空気を 詰め込まれ、まるで祭りの夜店のカエルのおもちゃさながらでした。  

am10:30、20分間の苦しい検査が終わって外へ出ると雪はや んでいました。結果がわかるのは早ければ明日です。何かあれば皆 で検討するので返事は遅れるようです。「何かあれば皆で検討」と いう言い方は余計に不安が募ります。慣れない若い医者ばかりのよ うです。これで全部終わりなのでしょうか。それとも何か新しい病 気の始まりなのでしょうか。心配の種は尽きません。  

am11:00、昼食。おかずは卵焼きとかまばこと菜っ葉の味噌 あえです。ご飯を食べました。たった1日の断食だったので食事の おいしさは前日とそう変わりません。おも湯とおかいさんのときの ほうがうまかったかもしれません。でも、ぜいたくは言えません。 食べられるということに感謝、感謝です。いまごろになって腹がグ ルグルと鳴り今にも下痢をしそうです。  

M氏が外泊のまま自己(勝手に)退院をしました。昭和19年 生まれの四十一歳です。元S市役所土木課の課長で、実家は旧家の お金持ちと本人から聞きました。祖父の代の財産を兄弟姉妹に全部 取られたと言っています。それでもSの一等地に家を構えているの です。  

風貌は全く憎めません。丸顔で、いかにも旧家のおぼっちやま というタイプです。人懐っこい笑顔はのんびりした動作とあいまっ て、おじいちゃん子がそのまま大人になったという感じなのです。  

そのまん丸い顔はどす黒く、肝臓病特有の顔色です。以前に入院 していた精神病院で血を吐き、肝性の昏睡で十日間、生死の境をさ 迷った経験があるそうです。こんなアルコール専門の病院に入って いるのが不思議なくらいです。  

病院側ではそれなりの処置をしているようですが、M氏はもっ と肝臓に詳しい病院で診てもらう必要があります。入院してアルコー ルをやめないと死んでしまうかもしれません。1度は総合病院に世話 になったこともあるらしいのですが病院内飲酒で追い出されたのです。  

酒は雰囲気を楽しむ酒だったようです。専らスナックを愛し、量 は水割りでグラス2、3杯が限度で、女性一筋の人です。奥さんとは 数年前に別れたそうです。子ども2人も渡してしまっているので、独 り住まいです。

近所に居る母親の体のことを心配しての外泊ですが、 それは表向きのこと、「もう戻ってけえへんで」とおいちゃんに漏ら していたとおり昼ごろ詰め所へ電話で退院を伝えてきたそうです。  

うわさがしきりに飛び交います。「皆、言うてるは、あの人、これ したら危ないで」。これとは酒を飲むまねのことです。

役所勤めの折り、M氏は下水溝に別の土管を埋め込むアイデアを 事業化し、他のF市ではその案が採用されたということです。

とにかく、 おぼっちやん育ちが抜けないまま、大学(O工業大学)を卒業して役所 に入り順調にかけ昇ってきた道です。神様はどこでどう狂わせてしまう のでしょう。酒と女におぼれるとはまさにこのことでしょうか。

奥さんとのことも、一回手を付けた女の両親、親族が次の日にそろ って押し掛けてきて、しかたなく結婚したそうです。子供が二人生まれ たのですが、別れる時も奥さんの実家が間に入り、あっさりと切れたと のことです。「初めから、好きやなかったもん」。M氏は寂しそうに 言います。  

光沢のない顔をゆがめて「一杯飲んだらどうなるか。一杯飲んだら こうなるんだ」が口癖なのです。自嘲気味に繰り返すことで、自分の気 持ちを無理に納得させているようでした。  

退院の前日、M氏は煙草と間違えて十円玉を口にくわえていました。 「悪いけど煙草に火付けてくれへんか」と、手を震わせて訴えかけてく るのです。箱から一本引き出して、ベッドで点滴中のM氏の口に火を 付けた煙草を差し込みます。「おおきに」と一瞬の休息を得たように吸 うと大きく煙を吐くのです。  

今日は、M氏の点滴の途中でおいちゃんに検査の呼び出しがかかり ました。ですから別れの言葉は「お元気で」と交わしただけです。  

M氏の近い将来は、再飲酒して繁華街の裏路地で血へどを吐いて行 き倒れが相場です。総合病院の専門科にもう一度診てもらうのは無理なお 願いなのです。けっして命を粗末にしないようにという言葉などは酒がや まらない現実の苦しさを考えると空虚な響きなのです。

「そで触れ合うも、他生の縁」「がんばってお互い、もう一花咲かせ よう」と何度も話かけてきたM氏の声が夜の闇が迫るとともにむなしい のです。 

pm8:40、消灯20分前。Keiの体が心配です。下痢ですか。おい ちゃんのが移ったのですか。かぜの症状の一つで何ともなければいいので すが。yaもお母さんを助けてがんばってほしいです。病気をしないで 学校休まずにいってほしいです。  

おいちゃんは絶対に復活してみせます。このままアルコールにおぼれて つぶれてしまうわけにはいきません。新しい子も産まれてくることですし、 どうしてももう二十年は男としてがんばらないといけないのです。

本日、pm8:45の血圧は、88~150です。少し安定してきました。結果 が出るのが不安ですが、とにかく検査ご苦労様と自分で褒めておきましょう。

(この記事はブログの原点になるアルコール依存症からの回復日記である。
昭和61年(1986年)、アルコールの専門病院に入院したわたしが妻に向けて毎日書き綴った手紙で、病院の玄関にある郵便ポストに切手を貼って退院の日まで投函し続けた。)