終活 ひきこもりの息子を自立させるまでは死ねない

デジカメの編集画面にいつも笑顔の息子が現れる。「がんばれよ!」と小さく声に出してみる。

座右の銘、自我100%カット

"皆自分がいちばん正しいと思っている"

それを他の人をどうこうしようとするから争いが起こる。

アルコールを断って自助グループに通い始めたとき、"体験談"の中で毎回決まって妻との葛藤を話ていた。

「結婚してからずっと妻には母親役を求めていました」と。

30歳を過ぎて6つ年下の妻との結婚だったが、わたしは大人になれていなかった。

40歳を超えアルコール治療の専門病院に巡り合い酒っ気が抜けてから初めてそのこと(母親役を求めていた)に気がついた。

「母ちゃん」「ひろゆきさん」と会話する。母は全てを受け入れてくれていた。

女性問題でこじれたときも最後の尻ぬぐいは母がやってくれた。それが当たり前だと思っていた。わたしは自分の幼さに目を背け何も気づいていなかった。

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妻と結婚して2人だけの日常生活が始まる。何かおかしい。ほとんど(80%くらい)のわたしの意思が拒否される。

薄く笑ってスルー(20%)してくれることもあったがそれは妻がわたしを認めてくれたわけでなくあきれて諦めていたからなのだろう。

連続飲酒発作(ひっきりなしに酒を求め常に大量のアルコールが体内を巡っている状態)に陥った最後の時間の葛藤はいまでも鮮明に覚えている。

酒がやまらなくて苦しむわたしに対して「だいじょうぶ?」と聞いてくれ、関西弁で正直に記すと"だいじょうぶかと聞け!"である。

妻はあまりのうるささしつこさに、おざなりに「だいじょうぶ?」と嘲笑を含めて返してくる。

わたしはそれがまた気に入らない。言われて返すのではなく、「そっちの意思でだいじょうぶかと聞け!」

しばらく"言うかな?"と待っているがこのような状況で妻も優しくなれるわけがない。

「どうなってるんや、言わへんのか!」

これの繰り返しである。

30分ほどで妻はごそごそとし始める。実家に帰るという。

わたしは別な意味で慌てていた。"次の酒の手配どないしょ?"

一人では這(は)ってでも外へ酒を買いに出ることは無理である。

「次の酒どうする?用意してってや」

それを聞いた妻は「これでも飲んどき!」と大関の5合の紙パックをわたしの枕元めがけて投げつける。

ゴロンと転がった茶色のパック、これを書いている現在でも目の前にデンとある。

そのとき、息子がどこに居て何を感じていたのかわからない。

3DKのマンションだったから息子は別部屋で震えていたのかもしれない。よく酒に酔って事件を起こした犯罪者が捕まった後「酔っていたので何も覚えていません」とごまかした供述するが、それと同じである。

いま5合のパックは目の前に浮かんでも当時9歳の息子の姿が現れてこない。

実家に帰った妻は次の日「もう一度めんどう見たれ」と義父に諭されて帰って来てくれた。それからとんとん拍子に専門病院入院が決まっていく。

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自助グループ(私の場合は断酒会)の例会でわたしはこの話を繰り返し語り続けた。

奈良県断酒会の支部例会は週に1回である。しかし他所の支部を訪ねれば毎日どこかの例会に顔を出すことが出来る。

アルコール医療の医師は言う。「私たちは患者の酒を止めることは出来ません。ただ断酒会につなげることが役目です」

わたしは退院してから毎日、奈良、郡山、田原本、桜井、高田、吉野、橿原に通い詰める。日曜日は病院の昼例会にも遠出する。年間300回を超す例会出席で上の話を語り続けてきた。(現在は断酒会から離れている)

酒を断って30年以上、現在はタイトルにあるように「自我100%カット」を目標にしている。今年の初め辺りから段々とその域に到達してきたように感じる。

究極の愛はただそばに居るだけで良いと聞く。わたしは少し離れて住まいする妻と息子に手のひらを差し出す。酒の抜けた清い心で夫として父親として恐れ多いが"釈迦"さながらに、大きな気持ちで2人の自由を尊重し見守っていきたいと思っている。