アルコール依存症・閉鎖病棟からの手紙ー39ー
「お花見へ」 あるがままを受け入れ我慢
「今度の花見、行く?」とYさんに問いかけられました。
「いや、行けませんねん」
「家に帰る?」
「はい」
「ええなあ」
Yさんは冷やかし半分、うらやましさ半分のダミ声を残して先に洗面所から出て行きました。
「このごろ、だいぶんやせたんと違う?」、Yさんは外泊から戻ったおいちゃんのことを何度もからかいます。周りの何人かからも二、三やゆの混ざった言葉が飛んできます。
外泊したくてもYさんたちのように西成のアンコには帰る家がありません。まだ家族のあるおいちやんの境遇がバラ色に映るのでしょうか。
家庭には嫁さんとかわいい子どもがいるとなれば、ぜん望からちょっと皮肉ってみたくなっても無理はないかもしれません。
Yさんの良い所はそのからかいの表情の中に温かみがあることです。
「絶対、飲んだらあかんで」とYさんは常日ごろおいちゃんを後押ししてくれています。
そう言うYさん自身も酒をやめ続けることにしか命を継続していくすべはありません。それほど彼の体はぼろぼろになっています。
肝硬変症は腹水を生み断崖絶壁、もう後のない所まで来ているのです。
Yさんにも人生を転げ落ちる途中で、何度か踏ん張れるチャンスがあったはずです。
その機会をことごとく逃し厳しい現実と直面してみると、心の端々にあきらめと後悔が交差しているのでしょう。
その嘆きをひと時アルコールに紛らわせているだけのように見うけられます。
年齢のことを加味すれば、将来に対する希望はどうしても生まれてはこないということです。
病棟の外は好天に恵まれています。回復も順調?
ぽかぽか陽気はありがたいのですが、残念ながら体調は思わしくありません。気分は憂うつ極まりないのです。
体がだるくて、せきもひっきりなしに出ます。
朝食後、寒けを感じましたので布団を引き直して10 時ころまで寝ていました。いくらでも眠ることができます。
食欲の減退に比例してぐうたらしている時間が増えたようです。
歯が痛い、眼がしょぼしょぼする、腕の筋肉が突っ張る、足もだるい、吐き気もする、歯ぐきから血がにじむと悪いとこだらけです。
こうも体の不調が気になるのは、またいつもの神経症でしょう。
必要なことは必要に応じて一つひとつこなしていくことです。無理は絶対しないよう肝に命じます。
感じることは感じるままにして行動していくことです。本当にしんどい時には思い切って体を休めるにかぎります。
「不安であることと器質的なしんどさは別のものです」と森田療法。
昼食を半分残しました。
広告
昼食後、詰め所に呼ばれました。
4月4日(金)から8日(火)までの外泊届けの件です。
O医師は4泊は長すぎるとおっしやいます。
「2泊にならんか、飲んだら意味ないからな」とドクターは心配してくれているのか信用してくれてないのか微妙な感触で す。
「いつも3泊、もらっています」と返事をすると、それではと1日短縮され、いつもどおり金曜出発、月曜(7日)帰院の3泊で許可が下りました。
追っ掛けるように「飲んだら、あきませんよ」ときつく念を押されてしまいました。
飲んでたまるか、飲んでしんどいのはおいちゃんです。
pm、1:00、あまりにも体がだるいので逆療法に出掛けてきます。階段でのジョギングです。横になりたいですし横になるとすぐ倦怠感の中に眠気が襲ってきます。半ば気持ちの良い睡魔ではありますが、起きている時のしんどさは不快極まりません。pm、6:00、酒害教室が終わったところです。牛乳を飲みながら書いています。「周りの迷惑」をよく知るということで考えています。
仕事を失ったことで経済基礎が崩れ嫁さんにいい思いをさせられなくなった、お金のことでしょっちゆう苦労をかけるに至った、酔っ払った感情のまま夫婦げんかをし妻に不快感を与えた、子供に恐怖感を味わわせた、父親の良い所を見せないまま、子供は成長してしまった、いくじのない子に育ってしまった、知識の薄い子になった、亡くなった父母に最善を尽くしてやれなかった、義父母にも疎遠になり、もどかしさを感じさせてしまった、弟達にも兄貴らしいことをしてやっていない、会社も中途半端で辞め同僚に迷惑をかけた、といろいろあるものです。
しかし、おいちやんはそんなに無茶な酒飲みではなかったつもりでいます。
交通事故を起こしたわけでもなく、傷害事件などさらに遠い存在でした。
公序良俗に適した? おとなしい飲酒者であったわけです。
感情については森田療法の復習です。
①いったん生じた感情は自分の思い通りにはならず、あるがまま受け入れるしかない。②感情は放置すれば消失する。
これは分かっちゃいるけどということであります。
しんどいことと、しんどいと思うことの区別がまだつきません。
しんどく感じると、しんどくない状態のことを考えてしまいます。
こんなにしんどいのはなぜだろう、しんどくなかったらいいのになあ、と快を求めるのです。
求めても自分の都合よく快さが得られないので、気分が落ち込みます。
すなわち安心を求めて努力が始まります。これが神経症です。
あるがままを受け入れるという訓練を積むと我慢強くなります。心が研ぎ澄まされてきます。ですから先ず自分を鍛えることです。
その積み重ねに加えて、できましたら周りが変わってくれることを望みます。心境の変化を待つのみで、なるようになるです。
酒をやめ続けるための手引き
ーーーーーここからーーーーー
①専門病院で教えられていた規則正しい日常の生活が守られていますか。(起床、食事、軽い運動、雑務、断酒会出席、就寝)
②アルコール依存症の自分を認めていますか。
③回復への意欲がありますか。
④体調が崩れかけた時、病院に手当てを受けようと出掛けられますか。
⑤断酒会にこだわりなく出席できますか。
⑥自分の体験談ができ、仲間の発言も聞くことができますか。
⑦気が合い、話し合い、各集会(断酒会、断酒学校、記念大会、一泊研修、各種のレクレーションなど)に誘い合える仲間がいますか。
⑧再飲酒してしまった人への思いはどう変わりましたか。
⑨仲間の体験談で心に残る発言がありますか。
⑲断酒目的の他に次の目標がありますか。
⑫焦燥感が出た時の対処法を持っていますか。
⑫飲酒欲求の危機を防ぐ方法を見い出してますか。
⑬うらみ、つらみ、憎しみの量は減りつつありますか。
⑭「かっ」とした時に抑えられるようになりましたか。
⑮迷惑をかけた人々への反省がありますか。
⑬仲間からの忠告を素直に受けられますか。
⑰寂しさ、孤独感は少しは減りましたか。
⑬自分の方から仲間に話かけたり、断酒会に誘ったり、スポーツ、趣味を通じて交わるようになりましたか。
⑲ユーモア、ジョークを明るく受けとめられるようになりましたか。
⑳現在の日常生活で自分なりにリラックス出来ていると思われますか。
ーーーーーーここまでーーーーー
S病院の前の桜の花がちらっと咲きました。開花宣言をします。
今日は外出日和になりそうです。予想最高気温が22度Cとか。
久米田池の桜はまだ咲きそろうほどにはなっていないでしょう。
しんどいけれど、とにかく出掛けてきます。
頭がぼーっとして目もしょぼしょぼして筋肉痛はそこいらじゅうです。
でも動くと体は前へ進みます。
このごろよく白問自答するのですが、頭にしゅようなどできていません。
血圧も80~130ぐらいで安定しています。心電図を調べてもなんともありません。
肝臓も良くなりつつあります。胃も腸も腎臓もまあまあ働いています。
動こうと思えば動けます。新館にも歩いて行けます。洗濯も出来ます。
それならば、もうしんどくてしんどくてどうにかなるのではないのかという思いは、思いだけであり、
他の器質的なものからくるものは何もないのではないのかと、考えは安心へ行き着くのです。
浮かぶ感情はその感情のまま感じていなければならないのです。
O医師に呼ばれました。定期の面談です。
「焦燥感さえなくなれば酒は飲みません」というおいちゃんの考えは間違いだそうです。退院をしたら絶対にイライラして酒を飲みたくなると忠告してくださいます。
それに対処するためには安定剤、シアナマイド、電話、断酒会などを利用して心の空白を埋める必要があるようなのです。
心の空白とはこういうことと理解します。
心の占める割り合いのうち今まで飲酒を繰り返していた時は、5割以上が「酒」で占拠されていたわけです。
その部分に現在入院生活という「病院」が取って代っています。
退院すると「病院」の所がすっかり空白になるのです。
妻子の割り合いは急には増えません。
当初はその空いたところに断酒会を当てはめて処理していくしか仕方のないようです。
何年か酒をやめ続けて心の中の妻子の割り合いを徐々に増やしていくということをO医師は図を描いて説明してくださいました。納得。
今から久米田池へ桜を見に行ってきます。橿原には明日昼までに帰るでしょう。
yaによろしく。
(この記事はブログの原点になるアルコール依存症からの回復日記である。
昭和61年(1986年)、アルコールの専門病院に入院したわたしが妻に向けて毎日書き綴った手紙で、病院の玄関にある郵便ポストに切手を貼って退院の日まで投函し続けた。)