終活 ひきこもりの息子を自立させるまでは死ねない

デジカメの編集画面にいつも笑顔の息子が現れる。「がんばれよ!」と小さく声に出してみる。

母性が甲状腺がんを抑え自身の命を永らえさせる

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妻は細い体でとにかくよくがんばっていると思う。

自身のカニューレ(のどに突き刺さっている空気を取り入れる管)の内部そうじ(吸入吸引)とひきこもり息子のおさんどんで1日の時間はいっぱいいっぱいだろう。

健常者でもその仕事配分はたいへんなのに、疲れていても息子用の食事は準備しなければならない。

引っ越し前の暗いTビルでは、神経症的な息子の要求に振り回され昼夜なく"ご飯""ジュース""コーヒー"の要求に応えていた。

妻本人も少し神経質な面があり、台所が汚れるからとわたしには触らせない。洗い物がたまり、ほうれん草湯がきやおでん作りなど簡単な料理も手助け出来ないでいる。

先月末の医大受診のときにのどの管を交換したが、腫瘍が大きくなっていて管を引き抜いたとき血が主治医の服に飛び散った。

普段はガーゼとテープで覆いかぶしているが、交換時に腫瘍のグロテスクさを目の当たりにすると、妻のたいへんさが実感出来て切なくなる。

7年前の12月に妻は甲状腺がんの肥大によって気道(空気を肺に取り込む通り道)を圧迫し息が出来なくなった。

救急車で医大に運ばれ緊急手術でのどに穴を開けカニューレを突き刺した。

とりあえず息が出来るようになり、後の処置をいろいろと模索する。

「よくここまで放置してきましたね」ととがめられ、「ここでは手術が出来ない」と言われ、唯一可能性のある大阪の病院へカルテを持ってわたしが訪ねて行くことになった。

手術の名医が見立てても腫瘍の切り取りは無理で何も出来ないと言われ戻ってきた。

お陰さまで40日の入院も何とか過ごし退院となったが、その日主治医に二人で呼ばれ、

「4月の桜は見られないかもしれない」と後3ヵ月の余命宣言を受ける。

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退院後、最初の2年間はたいへんだった。器具の先、気道が肺の入り口で2つに分かれている所まで管が入っているが、そこに痰などが溜まると息が出来なくなる。

その度にひきこもりの息子が初期対応をする。と言ってもドキドキしながらわたしに「来て ! 」と電話をするだけであるが、息子もたいへん、わたしもいつ電話が来るやも知れず、息子から「お母さんが・・・」と電話が入ると深夜であろうと飛んで出なければならない。

仕事先に電話が入り中座させてもらい急ぎ戻ったことも何度かある。

一度、妻の呼吸が完全に止まったとき、息子が台所で倒れている妻ののどに刺さった管をちょいと動かして気道が偶然確保され息を吹き返したという奇跡もある。

そんなこんなを繰り返しながら医大のスタッフさん達にも守られて妻は現在、術後(この術後はのどに管を刺した手術後)丸7年になる12月27日を目指して奮闘中である。

妻は吸入吸引など全てを自分でやって来た。

ベッドサイドのテーブルに向かい1時間かけて吸入吸引をする。その後、腫瘍のガーゼを鏡を見ながら交換する。また1時間かかるらしい。

らしいというのは、妻は自身の吸入吸引場面をわたしに見られるのを嫌がって全く近づけない。落ち着いて出来ないらしい。

大阪の病院でもしあのとき手術が可能と摘出をうけていたら、妻はもうとっくにこの世にいなかっただろう。

手術しなかったことと、妻の母性 "この子を守らなければならない" という本能で7年間も生き永らえさせてもらっていると感じる。

普段あまり笑わず不愛想なのは常時しんどいからに違いない。

わたしは7年前の術後に決めた"妻の気持ちを決して荒立てないようにしよう" を守るため自我を極力抑えている。

ときとぎ " なんで? " と思うこともあるがぐっとこらえて笑顔で"そう"とやり過ごす。

妻の体重はこの夏に40キロを切ったと聞いた。

こんな小さな体で息子と対峙しながら淡々と1日を過ごしている。

わたしは側に居るだけで何にもできないが、自分を節制していつ何時、妻から買い物の注文やゴミ捨ての依頼があっても対処できるよう気息を整えている。

 

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