アルコール依存症・閉鎖病棟からの手紙ー51ー
「社会復帰」 寒風下、自分の意志で復活
am5:50起床.6:00ちょうどにお茶くみのドアが開いたので、W病院の方まで散歩に行きました。
第3病棟の看護人に坂道の途中で会ったのが、詰め所に通報される元でした。
さらに悪いことには、ええかっこをして中庭のごみを拾っていました。
6:30が過ぎたのに気づかず、外に締め出されてしまったのです。必死にベルを押して中に入れもらうのも体裁の悪いことです。
おまけにお茶くみ以外で関係のない所に出ていたことを追求され、えらいお目玉をくらいました。
これだけ注意され指弾されても、このごろ怒りはあまり起きません。聞く耳を持つということは心の奥行きが広がったということでしょうか。
何でも聞けます。いややなあとか、しょうもないなあとかの悪感情が生じても、そのまま放置しておけます。時間が経過とともに消え去るのです。
NRが見つかりました。昨日退院したYさんが、Kクリニック(天王寺区)に治療に行った帰りに釜ケ崎を訪ね、飛田本通りを歩いていた西村を発見したようです。
トンコ(逃亡)の形になっていたので、病院に清算のため帰ってきました。
Nは、Yさんに連れられて病棟に現われました。作業服の上下を着て体は見違えるように引き締まっています。
Aに誘われて西成で酒を飲み、寒い空の下に置いてきぼりをくらって、Nは、震えながら2晩野宿をしたそうです。
3日目にセンターに行って仕事を探し軽作業にありついたようです。
最初の1週間はしんどかった、1カ月は非常に苦しかったと述べています。
Yさんは、「Nはな、素直やろ、何でも言うことハイハイって、まじめにやるから仕事も重宝がられるのや」と言っています。
ここでも素直が人間の命を救っているようです。
それにしても、アルコールが原因で専門の病院に入院していたほどの男が、どん詰まりに追い込まれたとはいえ、見事に社会復帰を成し遂げてみせました。感動せずにはおれません.
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詰め所の前でNは、退院の別れのあいさつをしています。院長がちょこっと現われて、
「どや、元気でやっとるか」とおざなりな言葉をかけています。
おいちゃんやYさんほど、この事件に対して関心はないはずです。院長はお愛想を言うとぷいと去っていきました。
一人の人間が剣が峰に踏み止まり、また、そこからはい上がっていくのです。その生命力の強さには驚嘆します。
死んだと思っていた男が冬空の中での復活を自分の意志でやってのけたのです。限りのない親愛の情念がわき上がってきます。
NRを半分ばかにして苦労のない金で買ったチキンラーメンを、それ食えとばかりに渡していたことが恥ずかしくてしかたありません。
おいちやんなら確実に気が狂って死んでいたことでしょう。
Nのこれからの健康とがんばりを祈らずにはおれません。いくいくは金を貯めて、嫁さんでももらえよなあ、Nよ、Yさんと離れずにしっかりやれよ! とささやかなエールです。
Nは新館1階の会計で8千円余の現金を受け取って、Yさんと初夏の外の広がりへ出て行きました。
Aとトンコした冬と違って西村の周りには淡い緑の木々があります。
果てしない希望と、何にもましてYさんの温もりがありました。「NYコンビ」復活です。
NRは、布製の赤いバッグの手提げ部分を左右の手に通し、縦にして背中に担ぐと、Yさんと並んで病院の坂道を下り曲がって行きました。
ふと5月の風が舞い上がり、ツバメがそれに乗って宙返りをしたのです。
おいちゃんは詰め所の前で「手紙、ありがとな」と言って差し出されたYさんの右手の感触を忘れません。
握手した時、思いもよらぬ力強さをくれた右手をセーターのポケットに突っ込み、大いに満足しながら部屋に戻ったのでした。
部屋の薄暗がりの中で、おいちゃんの真横の床に同じ西成出身のアンコが寝そべっています。Yさんとは似ても似つかぬだらしのない男です。
退院まで後3週間の辛抱です。
とにかく今の仕事は断酒会に出席することに尽きます。例会に参加し自分の意志力を確かめることです。
人の話を聞くことによって我慢強い心を作り出していくのが務めです。
このことは焦らなくても、きっちりと会合に通っていれば、おのずと培われていくものだと信じています。
(この記事はブログの原点になるアルコール依存症からの回復日記である。
昭和61年(1986年)、アルコールの専門病院に入院したわたしが妻に向けて毎日書き綴った手紙で、病院の玄関にある郵便ポストに切手を貼って退院の日まで投函し続けた。)