アルコール依存症・閉鎖病棟からの手紙ー56ー
「酒害活動」 同じ苦しみを持つ人のために
久しぶりに便せんに向かっています。
行動範囲が広がると現金なもので、書くという作業がおろそかになっていきます。全く情けない話です。
今日は疲れ切って起きているのもしんどいので「日記」どころではありません。
それにしても先週は少しはしゃぎ過ぎました。
快晴の青空の下、5月のさわやかな風に誘発されてよく走ったものです。病院前の坂道を5往復、インターバルにボディビルを少々です。
熱中しているときは疲をは感じませんでした。数日経過してこれほど疲労が尾を引くとはびっくりです。
体のしんと周りの各部が痛んでだるいのです。
しかし以前奈良のA病院から退院後の絶望感だけのどうしょうもない体のしんのだるさとは違います。
同じような倦怠感でも今のものの方が自分の意志で我慢できるので助かります。
だるさが続くといつもの癖で不快感が一挙に押し寄せてきます。
口の中のぼつぼつが気になります。何もかもがめんどうくさく感じられてほっぽり出したくなるのです。
今はその一歩手前で森田療法の「ありのままの心」で踏みとどまってはいます。しかし、つらいことには変わりがありません。
つらい、しんどいとばかり言っておれない環境に自分を置くことによって、少しづつ耐える力を養っていかなくてはなりません。
そうでないと念願の「yaを後ろ姿で教育する」ということの達成はとうていおぼつかないでしょう。とにかく断酒会出席です。
朝のテレビ(6チャンネル)で断酒会のことが話題になっていました。
大阪府断のA・K氏がアルコール依存症からの脱却について質問に答えていました。
考えれば断酒会も有名になったものです。世間の理解も徐々に得られていくことでしょう。
大阪府下の断酒会員は4千5百人といいます。府の人口8百万人に比べて、意外に少ない数字です。
それだけ依存症というのは気づきにくく、やめにくい病気であるというのが実感です。
表面に現われないまま社会の底辺で苦しんでいる人や家族がいかに多いかということです。
(心の誓い)
「同じような酒害に苦しむ人たちを一人でも多く救おう」。
やめ続けて6ヵ月後より酒害活動に力を入れてみようと思います。おもしろい人生が待っていそうな気がします。
人間はタダでする仕事を一つか二つ持っていないと上手に年を取れないと聞きます。
お金になる仕事もないうちから無料奉仕の心配をするのはおこがましいのですが、音訳奉仕活動(橿原市の広報朗読)と酒害活動はおいちゃんのライフワークになりそうです。
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現在しなければならないことを文章にしてみます。
1、断酒会回り。これは50回を目標と公言しています。毎日通い続けることで弾みがつき日課となっています。
行かなければ何となくその日が気持ち悪いので、これはほっておいてもだいじょうぶです。
退院後も隔日くらいならそう気張らなくても回れそうです。
O医師の言う、「退院後6ヵ月は最低週に3回、プラス気の向いた時に断酒会出席を続けていくこと」は守れそうです。
例会出席については6ヵ月先が見れるようになっています。
2、仕事。この項には運動を含む体力増強、維持がくるべきなのですが、そう一朝一夕にできるわけでなく、気長に取り組むつもりなので後回しにしました。
仕事とは事に仕えるという字のとおり、便利屋ばかりが仕事ではありません。
家の中の掃除やボランティアの朗読なども大きな意味での仕事です。
しかし、それを営むことによって賃金を得ていくとなると便利屋開業などはまさに仕事中の仕事です。
代行サービス業はお客さんの要望量次第です。依頼が有りさえすればおいちゃんにでもこなせると思います。
いつも心配なのは得意先開拓などの営業面をどうするかということです。一軒一軒回って頭を下げる仕事には、はっきり言ってもう自信はありません。
飛込みの営業活動は大阪時代だけでたくさんです。
退院して6ヵ月は我慢の断酒になるはずです。その期間には仕事のことで心を迷わせたくありません。
特に最初の3ヵ月は苦しいと聞きます。便利屋稼業より断酒を優先させる必要があるのです。
6月中は生活保護があるので一息つけるとは思います。
7月からはどうして生計を立てて行けばいいのか、どのような暮らしぶりにになるのか、悩みごとは尽きません。
(おわり)
(この記事はブログの原点になるアルコール依存症からの回復日記である。
昭和61年(1986年)、アルコールの専門病院に入院したわたしが妻に向けて毎日書き綴った手紙で、病院の玄関にある郵便ポストに切手を貼って退院の日まで投函し続けた。)