薬からの離脱 減薬を最優先
『クスリは飲んではいけない ! 』船瀬俊介著(徳間書店)はわたしの愛読書である。
これを基に心臓病関連の薬(アーチストやワーファリン錠)をやめることが出来た。
今日は "心" 関係のクスリの話である。
わたしの経験を1~2つ書いてみたい。
アルコール問題にもウツはつきものでアルコールの離脱期に酒を断とうとするとよく現れる。
35歳の折り、パニック発作(アルコールの禁断症状)がひどくなり電車に乗って大阪の職場まで通えなくなった。結果、半年間職場を離れなければならなくなった。
一家の大黒柱であるから何とかして立ち直らなければならない。
酒を断つ努力をしながらわたしは胃腸科の病院で処方される精神安定剤を服用していた。
最初のうちは、はっきり酒をやめることが出来ず飲んだり飲まなかったりして安定剤も一緒に口に放り込んでいた。
ぱっとしない症状を訴えると胃腸科の医師は薬を増やしてくださり抗うつ剤を飲むことになった。
小さな3角の粒でこれを飲むと高揚感と共に胸が締め付けられるような感じがした。
1980年代のことである。今のようにパソコンは普及しておらず処方された薬に説明書すら付いていない。
言われるまま治りたい一心で飲んでは "いつ気分がちゃんとするのだろう"と空を見上げていた。
他人任せの時間が続く。
ある日の朝、酔いが交ざったうつろな状態でその朝に配られた新聞の折り込みチラシが目についた。
新築された精神病院の案内チラシで欄外に「アルコールもやっています」の言葉が書いてあった。
これだ !
次の日、治りたい(酒をやめたい)一心で酔いの覚めない体に鞭打って妻に連れられ隣町の精神病院を受診する。
院長の問診の後にカギをじゃらじゃら腰に付けた男性看護士に「こちらにどうぞ」と促され格子の中に入った途端、ガチャンとドアが閉じられ40日間の閉じ込め生活が始まった。
詳細はまた別の記事で書きたいが、とにかく薬を大量に飲まされた。強制なのである。
最初の1週間くらいは独房のような狭い檻の中である。
格子の下部に四角い開口部が設けられ、そこから水や食事のやり取りをする。手をつき出して手首に針を刺し採血をする。
手の平に山盛りの薬を「ハイ!飲んで!」と飲み終わるまで女性看護士はその場を離れない。
1週間たって大部屋に移されたときは完全に薬中毒に陥っていた。
そわそわとして1秒1秒が落ち着かない、精神の地獄を味わった。
入院30日後に外泊が出来ると聞き、面会の妻と語らって「親戚の葬儀出席」という名目でようやく1泊の外泊許可が出た。
わたしはそのまま病院には戻らなかった。
看護士が⒉人迎えに来たが「個人の意思での受診」ということで帰院を強制されることはなかった。(警察などからの"措置入院"だと強制力があり無理にでも連れて帰らされる)
急に薬から離れることになり1ヵ月間 強烈な"絶望感"が押し寄せてきた。
インターネットの情報など何もない1980年代のことである。
無我夢中で耐え徐々に絶望感は薄れていく。いまはっきりと覚えていないが約3ヵ月はかかったと思う。
なにもわからないままの断薬であった。
(その後、もう一度飲酒状態に戻ってしまい、ようやくアルコールの専門病院と巡り合ったのは3年後である。
入院生活は妻への書簡『アルコール依存症閉鎖病棟からの手紙』(当ブログ)に詳しい。)
とにかく最初の精神病院退院後は、何もわからず薬を止めることを実行していた。
そして苦しんだがたった一人で断薬が出来た。
上記の『クスリは飲んではいけない ! 』p208~
第三世代・抗うつ剤(SSRI)ーー六~七割には無効
●薬物療法で、うつ病は治せない、に "こうして治す"が紹介されている。
ーーーーーーここからーーーーーー
患者を向精神薬の多剤処方でクスリ漬け、これでは正常な人でもおかしくなる。
対策は、薬物中毒と同じ、薬からの離脱すなわち「減薬」を最優先する。
並行して玄米雑食、少食、断食、低温サウナ、運動などで「排毒」を行う。
ーーーーーーここまでーーーーーー
わが家の息子は部屋に20年以上ひきこもっているがある事件で薬から完全に離れている。
薬からの離脱の苦労がない、これは息子の唯一の取柄、社会復帰への特典である。
ある事件も後述したい。