終活 ひきこもりの息子を自立させるまでは死ねない

デジカメの編集画面にいつも笑顔の息子が現れる。「がんばれよ!」と小さく声に出してみる。

平成のすばらしき時代 一国一城の主

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小渕官房長官 1989年

我が便利屋は開業が1987年(昭和62年)である。

平成の30年間 ずっと便利屋(一人親方)をやってきた。

平成元年は1989年だから、もう便利屋を始めて2年目の無我夢中のときで小渕官房長官の掲げた「たいらかなる」を見た。

奈良県中を走り回っており

北の外れの生駒市へ午前中に見積もりに呼ばれたかと思えば

午後には南の端の榛原町へ出かけるといったように

ほんとうに奈良県を股にかけて動き回っていた。

生まれが1945年だから平成元年は1989年-1945年で44歳のときである。

個人でやれる仕事を得て何もわからないままそれでも充実した日々を過ごしていた。

 

便利屋業というのは、

その当時、右近勝吉氏が考え出した新商売である。

右近氏とは別の方が「便利屋開業」の通信教育をされていた。

わたしはアルコール依存症治療で専門病院に1986年2月から6月まで4ヵ月間入院生活を送った。

その入院中に通信教育を申し込んで勉強を開始する。

6月に退院して他の仕事に2~3(畳屋見習い、百科事典のセールス、学習塾講師など)就いたが

1987年7月に近所の方から「暑中見舞いの毛筆書き」を頼まれたのをキッショ(奈良の方言=しおどき)に便利屋で生きていく決断をする。

 

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町内みぞ掃除代理出席

以前にも書いたが

便利屋を始めるのにあたり決意したことがある。

大したことではないが

1つ、絶対に営業活動はしない。

2つ目、ネクタイは締めない。

 

手作りのチラシをポスティングしてお客さんを集めていく。

3ヵ月間は仕事はなかったが、就職という考えは全くなく、チラシを配り続け

1つ2つ現れる依頼にていねいに対応していった。

 

ほとんどが高齢女性からの雑用注文だった。

女性は家庭の財布を握っている。お金を使い慣れているので

自身が出来ないことには便利屋を雇ってパッと使ってくださる。

男性は使い慣れていないのでお金に細かく、

先ず自分でやってみるという習性がある。(私も同じ)

やってみて出来ないことだけ便利屋に頼んでくるので厄介な作業が比較的多い。

自然と女性客ばかりの店になっていった。

 

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ベランダ波板屋根の樋点検

 30年間、楽しいことばかりだった。

現在 ひきこもりの息子がまだ元気な中学生のころ、たった1度だけ大阪まで2人で出向いて処分を頼まれた大きな冷蔵庫の片棒を担いてもらったことがある。

妻も最初のころ5年間ほどは

サラリーマンの所に嫁いできたのに自営業なんて契約違反や」と言いながらも

手伝ってくれていた。

 

妻が退いてからは近所のおじさんが相棒になる。

いろいろとあったが、(またブログに綴ってみたい)

これはアルコール依存症になったおかげである。

転職の踏ん切りがついた。というよりこれ(開業資金2万円の便利屋業)しかなかった。

もしあのままサラリーマンを続けていたらもうとっくの間にこの世に居なかっただろう。

だれが言ったか知らないが、これこそまさにアル中の「二本立て人生」であ る。

高齢社会にともなって一人住まいのお年よりにお客さんが多い。(わたしも充分にその年齢だが)

もっぱら話しの聞き役に回っている。

 

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