終活 ひきこもりの息子を自立させるまでは死ねない

デジカメの編集画面にいつも笑顔の息子が現れる。「がんばれよ!」と小さく声に出してみる。

『F君』、副題(アルコールも麻薬)

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F君、元気な声を聞いて安心しました。

先日の私の断酒会での体験発表が、新聞に大きく取り上げられた時はほんとうに君からの電話を待っていました。うちのヤツも二、三日は掛かってくるよ、掛かってくるよと冷やかしてくれていましたが、何も音さたがなかったので逆に君の身の上が気になりだして、どうしたんだろうと二人で顔を見合わせていたのです。

いつもはどんな小さな投書文でも、見つけたら必ずその日のうちに電話をくれていたので、これだけ大きく載ったのだから電話がないことは絶対におかしいと、私よりうちのヤツがしきりに心配していました。

ちょうど暑中見舞いのハガキを書く時期にきていましたので、どうしていますか? 痛風が悪化して死んでしまったのですか? と少し冗談口調でハガキを出しましたが、すかさず、君から「元気にしとるぞ」の電話のコールがあって胸をなでおろしています。
そうですか。夕刊を取っていないのですか。

奈良県の山奥には夕刊の配達がされていない地域がありますが、まさか、本当のところはどうなんでしようか。 貧乏やから夕刊取られへんね、と茶化していましたが、君らしいですね。

電話で言っていた記事のコピーを同封します。 今回のは、いつものようにアルコール問題について私がしたためた文章が新聞に掲載されたのではなく、アルコール依存症という病気について特集するにあたって、新聞社の企画部から私が取材を受けたものです。

紙面の半分(七段)の記事の初っ端に「切れるとそわそわ、飲めばしんどい」との大きな見出しでアルコール依存症のことが取り上げられました。 大満足です。 それに私の写真も付いています。 あまり男前に写っていないので残念ですが、まあ、土台がこうですからしかたがないかもしれません。

この記事の取材に応じるために、私は二回新聞社を訪ね、合計六時間に渡ってアルコールで苦しんだ過去を告白しました。 順番が逆になるので心苦しいのですが、その記事の一行目にある、昭和六十一年の三週間を詳しく披露してみたいと考えます。

これはK 市断酒会の機関誌「鶴」に載ったもので、私の依存症最後のどん詰まりの症状です。 いま「鶴」が手元に残っていませんので、フロッピーから取り出して、この手紙に挿入してみます。

私は昭和六十一年二月にS病院に入院し、六月まで四ヵ月間、専門の治療を受けました。 以来、八年三か月、一滴の酒も飲まずに頑張っています。

入院前の三週間は布団の中だけの生活でした。 しんどくて苦しくて、酒の飲み過ぎが原因と分かっていますので、酒をやめたいのですが、どうしても酒はやまらず身の置場がありません。

上を向いても横を向いてもしんどいので、うつぶせに寝て枕の上にアゴを乗せ、目の前の湯呑み茶わんに手を伸ばします。 体は衰弱しきっていて腕に力は入りません。 日本酒の小さい方のパック(五合)を枕元に置いてコップに注ぎます。

やめたくてもなぜかやまらない酒です。 しんどさははるかに限界を超えています。 意識はひっきりなしにしんどさからの逃亡を企てます。 このままずっと目覚めないでほしいと半分飲むのです。

しかし、十五分ほどウトウトするとぱっと目が覚めます。 と同時にまた全身に倦怠感が甦り眠りの前のしんどさが戻ってくるのです。 しんどい。 このしんどさは何とかならんのか。 このしんどさから早く逃れたい。 コップの残りの酒を、今度こそこのまま目が覚めないでほしい、と飲み干します。

しかし、また、十五分ほどウトウトとするとぱっと目覚めます。 箱の酒から湯呑みに日本酒を注ぎます。 今度こそこのまま目覚めないでほしいと、のどの奥の焼け付く痛みをこらえながら半分飲むのです。 だめです。 また十五分ほどするとぱっと目が覚めます。 このように朝昼晩と、ずっとこんなことの繰り返しでした。

小便は買ってきてもらったシビンに垂れ流しです。 大使は何も食べていませんので五日に一回くらい下腹が渋ります。 自分の力では動けませんから、「トイレ」と妻を呼び、当時小学校三年生だった息子とに両脇を抱えられ引きずられてトイレに入ります。

自分の力では何も出来ません。 妻に支えられてパジャマのズボンとパンツをずるっと下ろしてもらい、抱えられるようにして便器に腰を落ち着けます。 下腹の渋りが取れるまで、五分か十分間、妻に付き添ってもらって用足しをするありさまでした。

心も体もボロボロの私ですが、私は妻に対して一つのこだわりを持っていました。 やめたくてもやめられない酒でのたうち回っている亭主の姿を見ていて、妻は何とも感じないのだろうかと、うらめしかったのです。

「だいじょうぶと思わへんのか、だいじょうぶかつて聞け」と叫び続けていました。 だいじょうぶかと聞け、だいじょうぶかと聞けと、あまりうるさいので、妻は「だいじょうぶ例と、めんどうくさそうにおざなりの言葉を返してきます。

「そんなんやったらあかんのや。 そっちの意志でだいじょうぶがと聞くんや。 三十分待つとくから、三十分後にそっちの意志で、だいじょうぶかつて聞くんや」

三十分たっても、いくら待っても妻は、「だいじょうぶ?」などと聞くはずはありません。 そうすると、そのことにまた腹が立ってきます。

「三十分たったけれど、さっきの約束ほどないしたんや。 そっちの意志で、だいじょうぶか聞けって言うたやる」。 でも、私がいくら叫んでも、妻はかたくなな後ろ姿を見せるだけです。

自分の気持ちが相手に伝わらないというもどかしさが高じてきます。 それまで一度も手を掛けたことのない妻に、私はむしゃぶり付いて行ったのです。

どこにそんな力が残っていたのでしょうか。 私は、後から妻に挑み、髪の毛を引っ張り、畳に引き倒し馬乗りになって妻の首を締め「だいじょうぶかつて聞け ! 」と声を荒げていたのです。

小学校三年生だった息子が飛んできて、二人を分けるようにして「やめてよ」と訴えかけてきました。 息子の両目から大粒の涙がボロボロとこぼれ落ちるのを見て、思わず私の手の力が緩みました。

妻は、私を突き飛ばして「実家へ帰る」と息巻いて、洋服ダンスを開け閉めして何かごそごそとやっています。 私は布団の中に戻って息を殺して「しまったなあ、次の酒の手配はどないしよう」と酒のことばかりに思いを巡らせているのです。

「実家へ帰ってもええから、次の酒の用意はして行ってや」と言うと、妻は台所の流しの下から○関箱の酒を取り出して「これでも飲んどき日と、ポーンと放り投げるのです。 キッチンから私の寝床まではかなりの距離があります。 茶色のパックの酒がゴロンと転がってきて、目の前にでんと横たわりました。

私は、「これであと半日はだいじょうぶ」と思いながら、この分がなくなったらどないしょう、と考えています。 体は衰弱し切っています。 近所の酒屋の自動販売機まで、はってでも買いに出掛ける姿が想像出来ません。

「どないしょう」

おかげさまで、その夜、実家の父に「もう一度面倒見てやれ」と 諭されて妻は帰ってきてくれました。 それからバタバタと段取りが進んで、三日後に泉州病院へ入院となったのです。

あとで五号(重症患者観察部屋)の仲間から聞いた話ですが、 -こいつ、今晩一晩、もたんで」とささやかれていたようです。 酒のために体はボロボロになっていました。

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どうですか? F君には初めて、暗く歪んでいた我が家の状態を告白する結果になりました。 毎日毎日、酒にすがり付いて同じことの繰り返しで、夢も希望もない、まさに地獄のような生活でした。

酒が原因だと分かりかけているのですから、酒を飲むのをやめればいいのですが、それがなかなか、私の場合やめられなかったのてす。

F君もう少し我慢して私の暗い過去に付き合ってください。 当時の精神状態について述べてみたいと思います。

F君、酒はおいしいから溺れるというのも「酒の魔力」の一面です。 しかし、飲酒が長期に渡り、体が酒を要求し始めると、いよいよ、酒の本当の魔力が発揮されるのです。

いわゆるアルコールの離脱症状(禁断症状、血液中から酒っ気がなくなると起こる)です。 私は、夜眠れなくなる、イライラする、手が震える、などの世間でもよく言われている普通の離脱症状を経験した後、三十五歳ころから奇妙な不安感に悩まされ続けました。

F君、白状しますが、悩まされたなどという生易しい言葉では表現出来ないほどの、そう、言ってみれば「精神の錯乱」なのです。

嘘じゃありません。 前の晩に深酒をして、酔い潰れて眠った次の日の朝、体からアルコールっ気が抜け始めると決まって、何となく体が震えるような、ゾッとするような感じに襲われるのでした。

体の内部から、具体的に言うと腹の底、胃の奥から、胸やのどへかけて、突き上げるような何とも言えない体の震えを感じたのです。 おかしいなあ、何かなあ ? と考えますがその時は何か、まったく分かりません。 酒が一因とも理解出来てはいなかったのです。

ご存じのように、サラリーマンをしていましたので会社へ勤めるには朝から酒など飲んではいられません。 精神安定剤などで誤魔化そうとするのですが、効き目はもうひとつでした。

酒を飲まずに我慢すればする程、体の震えは増します。 息の詰まるような感覚を伴って心臓の動悸が激しくなり、やがて居ても立ってもおられなくなるのです。 ソワソワと落ち着かない状態が訪れ、このままどうにかなってしまうのではないのか、という不安感にさ いなまれるのでした。

この症状が私の飲酒の根源なのです。 このソワソワ、ドキドキを消すために、酒を酒としてではなく、薬のようにして飲まずにはおれなかったのです。 また、飲めば症状は跡形もなく消えて、ホッとひと心地つけるのですから、手放せなくなるのも無理はなかったのです。

私は、この時の症状をドキドキと表現してよく日記に書いていました。 昭和五十九年五月の古い日記を紹介します。

心に不安が生じると、酒の力でその気分を押し退けてしまうことが出来る。 しかし、心の不安が体の不調からくるものであるので、時間が過ぎると酒の後遺症が逆に出て、飲む前よりいっそうつらい。

つらいから「不安」、このままどうにかなってしまうのではないのか、という不安感を取り除くために、その少し前に三合か四合くらいの酒で楽な気分になった、その気分を求めてまた飲んでしまう。

飲み始めの理由がそれなので、飲みだすと止まらない。 朝、起きると飲み過ぎによる二日酔いで胸がムカムカ、心臓がドキドキする。 しばらく我慢していても、このままどうにかなってしまうのではないのか、という不安が、朝からまた酒を要求させる。

朝から薬として酒を飲む。 飲むと眠くなる。 昼まで眠って、昼すぎに起きるといっそうの不安感が襲ってくる。 また、飲む。 不安感に堪えてどこかで酒を断たなければならないのだが、ドキドキしだすとひと時の安定した気分を求めて飲むことはとまらない。

酒のことが頭から離れず、買い置きがないとソワソワして小銭を妻の財布から盗みだして、そっと酒屋の自販機まで買いに出る。 深夜の二時、三時、明け方の四時、五時でも平気で買いに出る。

その時、体はたいてい酒まみれで、心は不安でドキドキし、頭は熱っぽく、ボヤーッとしており、半ば夢遊状態、半ば追い立てられるようにして酒に走る。 早くあの酒を飲んだ時の気分になって、いまのこの不快なドキドキを忘れてしまいたい、完全に取り去ってしまいたい、その一心で酒に飛び付いていく。

ニ日酔いはおのずときつくなる。 しかし、飲み続けていなければ体の不調、不安感は取れないし、泣きたくなる思いであった。

もうこのまま社会復帰は出来ないのではないのか。 将来のことを考えると心が真っ暗になる。 どこかでこの状態を断ち切る勇気が必要なのは分かっている。 そうしなければ、いつかは破滅なのだが、三、四日酒をやめたり減らしたりしていても、何かの拍子で元の木阿弥。

F君、以上がある日の日記です。どう感じられますか。お酒ぐらいやめようと決心したらやまるだろう ?普通の実感じゃないかと思います。ここいら辺の微妙なところが、今でも口で説明しろと言われても出来ないところなのです。

今だとすべてがアルコール依存症の症状と理解出来ますので、ある程度は話せます。しかし離脱症状である精神の錯乱はどうしても説明がしにくいのです。

私はこの症状を自分だけの離脱症状だと思っていました。ずっと後になって分かったのですが、このドキドキは何も私だけの特別な感覚とは違ったのです。

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ある時、断酒会という集まりの三重県での一泊研修会に参加した折りのことです。偶然、高知県の小林哲夫さん(作家)にお目にかかり、夜、押し掛けて行って聞いたことによりますと、私のこの離脱症状は、何も珍しい症状ではないと説明を受けました。

アルコール依存症には二つの型があって、一つは体の頑丈な一升でも二升でもいくらでも飲めるタイプで、割りと年を取ってから依存症になる人です。もう一つは、酒にあまり強くなく、五合までの飲酒の積み重ねで、若くして依存症になるタイプの二つがあるということでした。

後者の、若くして依存症になるタイプは、私と同じような体の震えやドキドキソワソワを経験しているというのです。全依存症患者の半分はそうだと小林氏はおっしゃったのです。

それはよく映画やテレビで見る、麻薬の禁断症状と同じなのです。 薬を抜くために粗末なベッドに括り付けられて、脂汗を流しながらのたうち回っている、というあれです。

私は、ですから、F君、アルコール依存症の末期を私は、やはりアルコールの中毒と認識したいのです。依存じゃなくて中毒です。 中毒の中の文字が、何かに「あたる」の意味があるから、正確には中毒という意味はアルコールに関してはない、などと屁理屈は聞き飽きました。 中毒なのです。

最初の頃は人間性の弱さで飲んでいたかもしれませんが、末期の酒は中毒が飲ませているのです。F君。酒に溺れたくて溺れたのではありません。中毒症状として、仕方なく酒を求めていたのですから、何回も言いますが、それは人間性とか、意志とか、性格とはまったく別問題なのです。

ここまで書いて、ワープロに向かってボツーとしていると、昔の新入社員時代を思い出します。F君も私も二十二歳で若かったですね。競馬にパチンコにと決して模範的な会社員ではありませんでしたが、楽しかったですね。

一緒によく飲みにも行きました。競馬の騎手の弟だと偽って、一杯飲み屋で女の子を相手にレースの予想に花を咲かせ、管を巻いていたのがつい昨日のようです。その何十年後の姿が、F君は通風で、私がアルコール依存症ですか。こんなになるとはだれも教えてくれなかったものねえ。

いよいよ入院生活の話に移ります。入院は昭和六十一年二月から六月までの四ヵ月間でした。さすが専門の治療です。その間、徹底的に酒の概念をたたき込まれました。アルコール依存症とはっきり診断され、もう一滴の酒も飲めない体になってしまっていると宣告を受けたのです。

少し森田療法も勉強して、恐怖突入も実行しました。不安は不安のまま心に浮かび上がらせておいて、差当ってやらなければならない建設的な仕事をこなしていく、という一種の神経症治療です。

この専門病院でアルコールで苦しんでいる大勢の仲間と知り合いました。アルコール依存症の患者が全国で二百二十万人も居ることも知りました。今(平成六年では、少し統計の数字が増えて、人口の二パーセントということです)。

例えば、F君の住んでいる市の人口が約八万人ですから、掛ける0.0 2を計算すると千六百人程が酒害で苦しんでいることになります。もう少し詳しく言うと、平均三人家族として算盤をおくと、三倍の四千八百人が酒に振り回されている勘定になるのですよ。F君の町でのことです。

隠していますが、お隣りで酒のため毎夜地獄絵を描いている家庭があるかもしれません。また、心を痛めている、心配しているという親類縁者迄を含めると、十倍の一万六千人が広い意味でのアルコールの被害者なのです。人口八万人の市の二割が何らかの形で酒に悩んでいるのです。

日本全国では一億二千万の二割、二千四百万人もの人々がアルコールに心を悩ませているのです。その割に、酒の害はあまり表面に出てきません。日本は伝統的に酒に大らかな文化を持っています。交通事故撲滅、煙草禁煙がキャンペーンでかまびすしい間、飲酒が原因で多くの人が命を失っているのも事実です。

肝硬変で五十二歳、酔っ払ってホームから転落して四十九歳、糖尿病が悪化して五十八歳、などと大酒が原因で死亡する人が依然として多いのです。でも、これ等は残念ながらアルコールのためとは統計に出てきません。

交通事故で毎年一万人以上が犠牲になると、警察など国をあげて予防や取り締りに必死です。アルコール依存症の場合、年間に同じくらいの人が命を失っても、飲酒天国の日本は酒に対して大らかで脳天気なのです。

(1995年、ウィンドウズ95が発売された年にわたしは自身のアルコールホームページ作り始める。酒にまつわる文章を一つまたひとつと収めていく。上記はその主旨を友人の「F君」にあてた手紙形式で表したものである。)