終活 ひきこもりの息子を自立させるまでは死ねない

デジカメの編集画面にいつも笑顔の息子が現れる。「がんばれよ!」と小さく声に出してみる。

わたしの不安神経症

わたしはアルコール類を一切断ってもう32年になる。どのような味がしていたのか思い出せもしない。

最後に飲んだのは"サッポロ"の苦いビールだった。断酒してから"アサヒ"のスーパードライが新しい口触りとして世に出て持てはやされたが、わたしは残念ながらのど越しのすっきり感というものを全く知らない。

冬の深夜、寒風吹きすさぶ商店街に小金を握り締めて酒を買いに出る。やっとたどり着いた近所の酒屋の自動販売機が"売り切れ"のランプが点いてあざ笑っている。当時の自販機の新機能として初めて登場した"売り切れ"(11時以降は売らない)をわたしは知らなかった。

また次の遠くの酒屋の自販機を目指して身震いしながら歩いて行く。酒を求めていく。「商売がへたくそやなぁ」、思いどおりに酒が手に入らなかったうっぷんを口にする。何とかして酒を口にしなければ・・・酒を求めてとぼとぼと歩いて行く。(次の店では売っていた)

飲んではいけない状況や時間であるにもかかわらず酒に吸い寄せられすがり付く。一般の人は「何でああまでして飲むのか?」、いやしいからに違いないと後ろ指をさす。

アルコールの専門病院を退院して新しい未来を切り開いていく途中で感じた"何でああまでして"を朝日新聞に投稿した。簡単な取材を受けてある日の朝刊に掲載されることになった。

ーーーここからーーー

 本人も知る「酒害の苦」(平成6.1.21)

私は8年前、アルコール依存症というらくいんを押され、専門の病院で治療を受けた者です。今ではすっかり回復し、毎日の生活を快適に楽しんでいます。このごろ、怒りごころが少なくなってきたことを実感できるのです。また自分のことを棚に上げて人につらくあたることもなくなり、依存症から回復したように思えるのです。

澄み渡った目で眺めてみますと、依然としていかに酒害で苦しんでいる人が多いかが分かります。統計によりますと、依存症の人がそのまま気づかず、アルコール類を飲み続けていくと、平均寿命は52歳といいます。

病気だから治さねばなりません。また治ります。そのためには酒害者本人が病気を認める必要があります。と同時に、家族の方も少し違った角度から酒害者を見てあげる寛容さが求められます。

周囲の人は、(1)、あの人は意志が弱いから飲む。(2)、一つも私たちのことを考えてくれない。考えてくれるなら我慢できるはずだ。(3)、もう少し量を減らしてくれたらいいのに・・・などとみています。病的飲酒欲求を、この程度にしか理解していないのです。

私は酒をやめようとして、どれだけの努力をして、どれだけ苦しんだかを話すつもりはありません。ただ1つ、酒っ気が切れてくると感じる精神の動揺については、今でもしつこく解明したいと考えています。

飲酒した翌日、目覚めてからしばらくすると、体がぞっとしてくるのです。この微妙な感じは焦燥感ではありません。胸が少し圧迫されるような、震えが腹から上半身に伝わっていくような、何とも表現のできない状態に陥るのです。

このままどうにかなってしまうのではないのか、という不安感が現れ、いてもたってもおられなくなり、錯乱寸前の状態にまで追い込まれるのです。この時、アルコールを口にすると、不快な症状がうそのように消え去ってしまいます。

次ぎの日もまた目がさめると同じことの繰り返しです。酒がほしい、ビールが飲みたいという渇望は、私にとっては薬を求めていたようなものなのです。私だけが特殊な立場だったとは信じられません。だれも、うまく表現できないだけだと思います。

 ーーーここまでーーー

1983年、38歳のときわたしは大阪の会社に通えなくなり退職する。40歳で専門の病院に巡り合うまでの2年間、わたしは上記の不安感にのたうち回った。今だと酒の禁断症状だとわかるがその時はわからなかった。

妻と息子には計り知れない迷惑をかけた。次に機会があれば日常の修羅場を再現してみたいと思っている。今日はこの辺で失礼。明日は息子の不安神経症(不潔恐怖症)を書いてみる。