終活 ひきこもりの息子を自立させるまでは死ねない

デジカメの編集画面にいつも笑顔の息子が現れる。「がんばれよ!」と小さく声に出してみる。

アルコール依存症・閉鎖病棟からの手紙ー1ー

 この記事はブログの原点になるアルコール依存症からの回復日記である。

昭和61年(1986年)、アルコールの専門病院に入院したわたしが妻に向けて毎日書き綴った手紙で、病院の玄関にある郵便ポストに切手を貼って退院の日まで投函し続けた。

 「5号室」 人生のつらさが分かります

前略、順を追って見て感じたことを書いて送ります。おいちゃん(わたしの通称)やkei、yaに関係のないことも含まれていると思います。我慢して読んでみてください。

まだ5号室(重症者観察部屋,詰め所の真横にある)に居ますが、ベッドは最初の所からいちばん奥に移りました。足の悪い患者が新たに入ってきたので場所を譲りました。松葉づえをついて不自由そうです。

看護士の質問に答えているのが聞こえてきます。4年前に酔っ払って歩いていて交通事故にあったそうです。意識不明がしばらく続き、回復後、右足を2回手術したようですが足は曲がったままで、もう元には戻らないのです。

「足は切ってしまいたい」と、めんどうくさそうです。けっきょく、跳ねた車は逃げてしまって、だれにぶつけられたのか分からずじまいだったようです。「それもこれもみんな悔しい」と顔をしかめるので見ていられません。看護士は、「事故で人生、変わったな」と簡単に言うだけです。

松葉づえをつき片手にバケツをぶら下げて、ここ泉州病院では自分で洗濯をしに行かなければなりません。哀れといえばおいちやんも同類ですが、その人(T氏)のことを見ていると、人間の生きていくつらさ、苦しさがよく分かります。入院時に奥さんが一緒でしたが、二人で過去にどんなことがあったのでしょうか。

「ふろへ入るの、たいへんでんな」と他人はすぐ慰めます。「もうちょっとの辛抱や」とT氏は強がって見せますが,首はずっとかしいだままです。ひざのギブスが取れない間は、どんなに汗をかいてもふろには入れません。「あっちこっち回ってきているけど、ここはあかん、最低の病院や」と、しまいにはぶつぶつ八つ当たりして沈み込んでいくのです。

こうして目に映るものを表現し続けていると、いつまでも限りがありません。今日はこの辺でペンを置くことにします。次の手紙では「福祉」について書いてみようと考えています。

追伸 おじいちゃんが生きていたら、今日はおじいちゃんの誕生日です。ki、yaよ、おいちゃんはがんばっています。それぞれ自分の人生を大切にして、毎日を楽しく生きていくようにしましょう。

(続き)
ただ今pm、5:20、肝硬変症の人が定時の点滴を打ちに、おいちゃんの横の空いたベッドにきました。

「しんどい、しんどい。飯くうて今まで寝とった。俺、ふっと目を覚まして、どこに居るのやろと思った」と、ぐったりしています。

丸い顔に短髪の、顔色のものすごくどす黒いMさんです。年は40歳を少し過ぎたくらいでしょうか。アルコール依存症になる前は、土木事務所のエライさんだったとのことです。Mさんも酒で人生を狂わせてしまった一人です。

他人事ではありません。おいちゃんもどこでどう間違ったのか、アルコールの害でこんな所に入院するはめに陥っています。周りのkiをはじめyaやばんばんじいちゃん、ばんばんばあちゃんなどに償いきれない迷惑を掛けてしまいました。kiに対しては亭主らしいことが何一つできず、弟たちにも兄貴らしいことをちっともしてやれず、酒に惑わされていた半生です。どこでどうレールを踏み外してしまったのでしょう。

アルコールはやはり毒だと思います。おいちゃんの人生にもしアルコール類がなかったとしたら、どうだったでしょうか。酒で救われた部分もあって何とも言えないのですが、となんとなく愚痴ってしまいたくなります。

アルコール依存症は病気です。20歳を過ぎて皆と同じように飲み始めた酒です。ほとんどの人がおいしく味わっているし好品で、依存症になる者とならない者が出てくるのはなぜなんでしょうか。どこか不公平じゃないですか。やはり心の中に弱い部分があったのでしょうか。

1、シアナマイド(無色透明)
2、ノックビン(粉)
1、2は抗酒剤です。

いまpm、7:10分です。部屋の中では話が弾んでいます。福祉の件は次の機会に語ります。皆いい人です。安心してください。

ps、例のA病院(N県の精神病院)で一緒だったI氏のはからいで明日5号室を出るかもしれません。出たらすぐに連絡をします。keiちゃんもお元気で。