アルコール依存症・閉鎖病棟からの手紙ー13ー
「Kさん」 断酒9年もがんばったのに
ラジオで梅便りが聞こえてくるころになりました。太宰府天満宮の梅の花が咲き始めたとか。厳冬のため今年は例年より開花が遅いそうです。上品寺池の堤の梅は咲いているでしょうか。
今日、K病院のグラウンドに尼崎、堺、泉南の地域断酒会から、ソフトボールチームが来て試合をしていました。支部長、会長クラスになるともう何年も断酒をしている人たちばかりです。依存症暦のある実年たちが、元気に球技に興じている姿を見ていると勇気がわいてきます。
部屋に居るとどうしてもわびしい話を聞くことになります。失職、離婚、再就職の困難さ、と落ち込む話題ばかりです。風が冷たく、雲の流れも速く、陽が陰るとやはり2月の寒さが押し寄せてきます。しかし、凍えた部屋でわびしい話に耳を傾けているよりはましです。運動広場の隅で、たき火にあたり鼻をすすりながら、1時間ほどの観戦でした。
完全に断酒できる者は、ほんの一つまみという統計を知って恐怖を覚えていましたが、こうして現実に酒とおさらばしてソフトボールを楽しんでいる人たちを目の当たりにすると、すごいなと思わずにはおられません。
よし!おいちゃんもやったる!そういう心の高揚です。断酒会への参加の意味は、こういうところにもあるのでしょう。
5号室にKさんがまだ居ます。おいちゃんが入院した時、すぐ後ろのベッドにいた人です。尼崎から来ていて、額に一本深い横じわの刻みこまれた四角い顔の男です。年齢は47歳、福祉の世話でやっかいになっています。
ある日、1升飲んで、夜中に次の酒を自転車で買いに出たそうです。
酒を求めての帰り道、交差点で女の子の乗ったバイクと衝突しそうになったのです。1升瓶を片手に持って、下り坂をかなりの速さで下りている時でした。信号が赤になりかかったので、渡ってしまおうとちょうどスピードを上げたその時です。
右肩からまともにひっくり返ったと言います。左手の酒瓶を割らないようにかばったため、石畳の上に自転車もろともずっこけたと言うのです。瓶は割れてしまい、若い女性の単車はすっと横を擦り抜けて行ったきりだったそうです。
依存症で入院してきて以来、ずっと右肩の痛みを訴え続けていましたが、何の処置もしてもらえなかったようです。3日目にやっと申し訳程度の貼り薬がもらえます。1週間後、新館でレントゲン撮影をしても、「何ともありません」と言われるだけだったようです。
安心する間もなく、今度はしびれが右腕全体を襲い、手が固定されたように上に上がらなくなってしまったのです。注射を3日連続しても症状が戻らないので、仕方なくK病院の整形外科を受診したそうです。
ほったらかしにされていた腕は骨折していたというのです。時間が経ってしまっているので骨の周りに肉が付き、今では手術以外、回復は望めないようなのです。1カ月後に、もう一度正式に診察してもらって、メスを入れるかどうか判断をしてもらうようです。利き腕が曲がったまま胸にひっついた状態なので、K氏は身の回りのことが全く出来ません。だからいつまでも5号から出れないのです。
体はがっちりとしています。今すぐにでも土方でバリバリ仕事ができそうに見えるのです。でも状態は最悪で、現場復帰がかなうかどうかが、いちばんの心配なのです。M県に残してきた娘さんが、この春、学校を卒業して大阪に出てきます。9年間断酒して、断酒会とつながってがんばってきていたのに、昨年の1月から、バタバタと3回もS病院へ入退院を繰り返しているというのです。
「もう自信がない」と寂しそうです。いろいろ考えると夜が眠れないと鼻声がよけい詰まってしまいます。5号に居る時、Kさんとはよく話し込みました。彼は中学しか出ていません。「あんたはええ、字が書けるから。わしら手紙出したいとこ、ようさんあるけど、かっこ悪くて」としょんぼりです。
「今まで、わしが、ああこの人は再入院ないな、と思った人は帰って来てへん。あんたも帰ってけえへんと思う」と言ってくれるのです。いつも、「寂しいから、5号にも遊びに来てや」なのです。このごろチキンラーメン持参で5号室へちょくちょく顛を出しています。
今日も2人で散歩に出たところ、運動場で断酒会長たちのソフトと出くわしました。Kさんはみんなからしきりと励まされていました。9年間の仲間もいっぱいいます。Kさんは娘さんと一緒に住む春以降に、自身の心の変化を期待しているようなのですが。
寝床でyaの手を握って「すまんな」と泣きながら、それでも枕元の冷や酒をあおっていた、おいちゃんの姿が浮かんできます。アルコール依存症とは恐ろしい病気です。A断酒連合会のA会長が、グラウンドでこう言っていました。「あれもしよう、これもしようと思わずに、毎日愉快に楽しく一日を暮らしていくこと。死んだらあきまへんで」
明日はもっとおもしろい情報をお届けします。
(この記事はブログの原点になるアルコール依存症からの回復日記である。
昭和61年(1986年)、アルコールの専門病院に入院したわたしが妻に向けて毎日書き綴った手紙で、病院の玄関にある郵便ポストに切手を貼って退院の日まで投函し続けた。)