終活 ひきこもりの息子を自立させるまでは死ねない

デジカメの編集画面にいつも笑顔の息子が現れる。「がんばれよ!」と小さく声に出してみる。

アルコール依存症・閉鎖病棟からの手紙ー18ー

「飲めば地獄」 一滴たりとも口にしない

如月(きさらぎ)最後の日にふさわしく、寒い夜明けでした。明かりの中にうっすらと積雪が認められます。北の風はコンクリートの中庭を吹き抜けて、カーテンのすそから外の冷気を部屋の中にまで運んできます。  

15号室の人間がいっぷう変わっているように見えるのは I 氏の影響が多大です。皆、彼の風ぼうと入れ墨に威圧されています。顔色をうかがい、注文の出ないようにおどおどしているのです。  

朝の掃除は狭い便所と廊下だけです。大の男が4人も5人も点灯前の5時過ぎから起きだして、ごそごそと待機しています。おいちゃんは新入りなので文句は言えません。しかし、これくらいの掃除は、当番週の中で、また当番を決めてやれば1人ででもできる量 なのです。  

15号は宵っぱりばかりです。9時の消灯時間を過ぎても、テレビ室で10時までドラマを見ています。I 氏がそうだから皆はしかたないのかもしれません。10時過ぎからおもむろにテレビ室の掃除です。

おいちゃんの好きな「特捜最前線」のある木曜日はいいのですが、他の曜日に消灯後すぐ(9時)寝ると、翌朝早速、I 氏からとがめられました。「皆と一緒にテレビ室の掃除せえよ」なんです。

同県人のよしみでこれですから、他の人に対する圧力は相当なものでしょう。自分では病室全部を取り仕切っているつもりのようです。  

ダンボール箱の机に向かって、あぐらをかいていると足からだんだん冷えてきます。鼻水もひっきりなしです。何となく体もだるく、動くのがおっくーです。

寒かったので朝の体操は休止し、点滴までふとんに潜り込んでいました。2階、特に5号室のベッドに居た時には感じたことのない寒さです。気合い不足なのでしょうか。  

am12:00、院長回診があるというので部屋に足止めをくっています。今日の巡回は13、15号室の順です。

ふわふわ上下するダンボールの箱に便箋の裏紙を置いて書いています。字がどうしても 凸凹します。読みにくくはないですか。ボールペンの字は、やはり堅いデコラ張りの板などの上で書くのがべターです。  

 

3月8日が待遠しいです。不安もありますが、期待の方が大きいです。康弘をおんぶするのを楽しみに帰ります。  

外泊時に1泊より2泊を病院が勧めるのは、次の理由からです。

外泊希望者はシアナマイドという抗酒剤を飲まされて病院を出ます。1泊だと飲酒欲求を確かめられないのだということです。シアナマイドは24時間の効果があります。その間は飲めないという意識が働いています。

薬の効果が切れるまでに帰院となり渇望状態が実際どの程度なのかは、これではわかりません。だから2泊を勧めます。2泊だと2日目は抗酒剤なしです。  

1ヵ月を過ぎて泊まる所のある人には「外泊しろ、外泊しろ」と病院が働きかけるのは、だから治療の一環なのです。最初の1、2回は失敗しても、それが絶対にダメということではないそうです。

「そういう失敗を何度か繰り返していくうちに、自然と治ってい くのです」と、いつもO医師はおっしやっておられます。  

だからといって飲むことを認めているわけではありません。おいちゃんはどんなことがあっても、絶対に1滴たりとももう飲みません。飲めば地獄が訪れるということがわかるからです。

このごろよく外で1日中飲みまくって平気な顔で病院へ帰ってくる者がいます。おいちゃんには、そんな器用なまねはできません。

1杯飲んだら最後、全てを放棄してつぶれるまで飲むことが想像できるのです。きっと病院にも戻らないでしょう。  

1杯口にしたという精神的なショックも相当なものでしょう。今でも、アルコールなしで過ごす果てしのない未来を考えてぞっとしているのに、1杯飲んだら終わりです。  

けっきょく死ぬことはできなかったのです。順序はこうです。肉体の苦痛をアルコールで紛らわせようとします。末期には、紛れるのはこっぷ1杯の日本酒で15分です。

うとうととして次に目覚めれば、より以上の苦痛が待っています。だから、またこっぷ1杯 の酒を口にするのです。今度は10分問うとうとと紛れます。また目が覚めます。

体の苦痛は限界まで達しています。もう3日も4日も何も食べていません。食べられないのです。衰弱しきっている体が、それでも鎮痛剤としての酒を欲しがります。飲まないと肉体の苦痛に堪えられないのです。  

飲んでも次は5分です。深いため息を吐ききったまま、息が途絶えればいいと考えます。それで酒をのどに流し込まないと苦痛には堪えられません。

すでに体が思うように動きません。枕の上に頭を乗せて、あごを突き出し、かろうじてこっぷについだ酒を吸い上げます。これが連続飲酒発作の正体です。  

いつまで繰り返しても苦痛はなくなりません。かえって苦しみは増え続けています。もう生きていることがめんどうくさくなってくるのです。

苦痛から逃れるには死ぬしかない、こう思い始めます。この微妙な瞬間が、「死ぬ気で」という言葉で表現されます。「死ぬ気で飲んでいた酒です」とはこういうことを言うのです。 

酒がおいしいからたらふく飲んで、「そんなに飲んだら体に毒ですよ」と忠告されても、こんなおいしいお酒は死んでもやめられません、という意味の「死んでもいいつもりで」ではないのです。  

5号室には相変わらず次々と新顔が登場してきます。また再入院もけっこう多いみたいです。仲間どうし「また来たんか」といって懐かしがっている光景をよく見かけます。

A市の保健所の職員が依存症で入ってきています。先日書いたK氏の病院友達のようです。やはり再入院で、今回はかなり弱っているようです。食事が取れないほどぐったりとしています。  

 

おいちゃんも入院時は死ぬ寸前でした。衰弱しきっているのを見て「こいつ、今晩一晩もたんで」と同情されていたようです。これは同室の患者仲間から後になって聞かされました。3日間はおかゆもすすることができず、うめいていたのを思い出します。  

皆に「吐いてもいいから食べんとあかん」と言われた同じ言葉を、5号室では申し送りのようにしています。重症患者に対する励ましの言葉が、少し元気な先輩の口から、呪文のように繰り返されて出ているのです。 

おかげさまでおいちゃんは少し走れるようになりました。昼食、夕食の配膳の手伝いもできるようになりました。あの坂道を小走りにかけのぼることもできます。  

院長回診時、「アルコールなしで乗り物に乗る自信がない」と言うと、院長は「森田療法の本があるから読んでみろ」とのことです。森田療法ではおいちゃんの方が先輩だと思っています。ノイローゼに実際にかかったことのない者(例え医師でもです)が、簡単に”現場突入”を言ってもらっては迷惑です。 

外来で訪れる神経症の患者に、今日おいちゃんに説明したことくらいしかアドバイスできないとすれば精神科医失格です。こんなことでは心の病はいつまでたっても治るはずがありません。日本の精神医療ってこんなもんだろうなぁ、と思うとぞっとして気が遠くなります。

(この記事はブログの原点になるアルコール依存症からの回復日記である。
昭和61年(1986年)、アルコールの専門病院に入院したわたしが妻に向けて毎日書き綴った手紙で、病院の玄関にある郵便ポストに切手を貼って退院の日まで投函し続けた。)