終活 ひきこもりの息子を自立させるまでは死ねない

デジカメの編集画面にいつも笑顔の息子が現れる。「がんばれよ!」と小さく声に出してみる。

アルコール依存症・閉鎖病棟からの手紙ー15ー


「生命の浪費」 「男」の固定観念に縛られて

am5:35起床。起きてすぐ便所掃除にかかりましたが、おいちやんの早とちりで当番交替は今日の午後9:00からです。明日の朝からの1週間が当番期間で1回損しました。

各地域の断酒会の雑誌を読んでいると、時々良い文章に巡り合います。次の文もその内の一つです。
”お金を浪費することが悪いのではなく、浪費の対象が生命であるということを承知しながら、また繰り返す。そんな、どうでもよいという安直な答えを出してしまう、自分の弱さの浪費が悪いのである”

浪費の対象が生命であるということをショウチシナガラ飲酒を繰り返す、それが弱さなのでしょうか。そこいら辺の微妙なところが依存症が心の病と言われているゆえんでしょう。承知しながらということは、言い換えれば、死ぬつもりで飲むにつながります。

「死んだろ」、「死んでもいい」とする考えが安直な答えに相当するのでしょう。飲酒が意志で抑えられない病気であったとしても、死んでもいいと思って飲むのはやはりおいちゃんの弱さなのでしょう。

この弱さを鍛えるためにS病院の中でちり芥(あくた)にまみれてみようと考えています。幸いにNのA病院でのように拘禁ノイローゼも発症していません。ここでは毎日、けっこうあっちの部屋こっちの部屋と飛び回っています。人に話しかけ、人の話を聞き、笑ったり腹を立てたりと案外楽しんでやっています。安心してください。

昭和59年の森田療法の治療でF医師(?)がよく言っていました。「そのドキドキがなかったら、酒飲まんですむんか」と。「そうです」とその度においちゃんは答えるのです。実際にそうなんです。

あの居ても立ってもおられない、そわそわした感覚が諸悪の根源なのです。このままどうにかなってしまうのではないのか、死んでしまうのではないのか、という心悸(き)高進はいったい何だったのでしょうか。

心臓神経症(不安神経症の一つ)の、締めつけられるような苦しさとは別ものです。おいちゃんのは、動悸の伴う”精神の錯乱”です。この錯乱の果てしのない苦しみは、なった人以外は想像がつかないでしょう。

宇宙の果てまで逃亡を企てても逃れ切ることは できません。この精神の錯乱には、なぜか酒がよく効きました。アルコールが精神安定剤の役割をはたしていたのです。

今から考えるとあのドキドキは一種の酒の離脱症状の一つだったのではないのか、と想像ができます。プラスその精神の錯乱の原因が何かわからなかったのでノイローゼ症状が生起し、アルコールの離脱現象と複雑にからみ合っていったと思うのです。

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ドキドキが酒の禁断症状の一つだとすると、ここではまだ一度も変調は起こっていません。やっと何かを乗り越えたのかもしれません。

石橋をたたいて渡るという性格も恥とは思わなくなりました。石の橋は壊れないのですから、たたく必要はないという意見があるとします。ほとんどの男がそう信じて一つも気にしていないのだから気にするのはダメな人間の考えだ、とおいちゃんは固定観念に縛られていたのです。男なのだからそんなこと気にしない男になろう、ならなければいけないと心のかっとうがありました。

でも、いろんな人と話すことにより、石橋をたたいた後、渡らない性格の人もいるという当たり前の雰囲気がわかりかけてきました。おいちゃんの場合、たたいた後、曲がりなりにも前進するのですから、それはそれでよかったのだと悟りかけています。

am8:30点呼。便せんに向かって5枚書くのが中毒になりそうです。アル中をやめて手紙中毒になれたらいいのになぁと心がときめきます。脳のあらゆる機能が回復しかけてきましたので、手紙文の堆こうは1時間もあれば完了です。社会復帰してからでも肩の凝らない雑文でも書き続けられたらと夢を見るのです。

これをしたためる情熱は中毒もありますが、やはりKei、yaと離れていることに起因します。ホームシックが裏にあるかもしれません。それにこんな下手な文を読んでくれるのは、ヨメさんのKeiしかいないでしょう。Keiだからこそ何でも書き散らせるのだと信じています。

am8:50、もうすぐ朝の点滴です。2階の2号が点滴部屋です。今から毛布を抱えて打ちに行ってきます。

pm3:30寒い日です。昼ごろから粉雪が舞っています。昼食後、送ってもらった運動靴をはいてグラウンドヘ行き、外野の土の上を少しジョギングしてきました。長い期間走っていなかったので、体がだいぶふらふらします。息もすぐ上がります。あせらず少 しずつ足腰を強化していくしかないなぁと考えるのです。

靴のサイズはぴったりでした。(荷物は昼前に受け取りました)。チャイナマーブルを早速口に含んでみましたが、5号でなめた時の味より、なぜか感激が薄かったです。せっかく探してきてくれたのに申し訳ありません。  

Keiの写真も横に変な男が写っているので気に入りません。今度帰ったとき自分で探します。まだ検査の結果は知らせてもらえません。O医師の姿を今日はずっと見かけないのです。

(この記事はブログの原点になるアルコール依存症からの回復日記である。
昭和61年(1986年)、アルコールの専門病院に入院したわたしが妻に向けて毎日書き綴った手紙で、病院の玄関にある郵便ポストに切手を貼って退院の日まで投函し続けた。)